先日購入したウランガラスのウラン原料は、鳥取・岡山県境にある「人形峠」産である。おそらく40代以上の人なら、この名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれない。人形峠は、日本で唯一、実用ベースでウランを産出していた鉱山だ。(Wikipedia 人形峠)

人形峠の歴史は日本の原子力行政に強く影響されてきた。日本の原子力政策は、1954年(昭和29年)に中曽根康弘が中心となって始めた。最初についた予算はU235にちなんで2億3500万円だったらしい。翌1955年(昭和30年)に「原子力基本法」が自民党・社会党の共同提案で成立した。日本学術会議も「公開・民主・自主」の三原則を盛り込むよう提言し、基本法に反映された(原子力基本法第2条)。そして、わずか2年後の1957年(昭和32年)に東海村の実験炉で初めての臨界に達した。いつもゴタゴタしている国会を見慣れた今では信じがたいことだが、当時は政治的立場の違いにかかわらず、原子力を有効に使って豊かになろう、と、イケイケドンドンで盛り上がっていたわけだ。

原子力発電の立ち上げと並行して国内でウラン鉱山探しが始まった。1955年には人形峠に有望な鉱床があることが分かり、1956年(昭和31年)に人形峠のウラン採掘のために原子燃料公社が設立され、1961年(昭和36年)には国産ウラン200kgの精錬に成功した。ちなみにこの原子燃料公社はのちに、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)、核燃料サイクル開発機構と変遷し、現在は日本原子力開発機構として存続している。

夢の国産エネルギー源の採掘地として、中国山地の山奥深くが突然脚光を浴びたので、当時の地元の熱狂は大きかったらしい。以前、付近を車で通ったときに、当時の誘致合戦を偲ばせる看板や施設を目にしたことを覚えている。しかし、可採埋蔵量が予想以上に少ないことと、ウランの国際価格が低下したことから採算に合わず計画は放棄された。鉱山の操業は昭和50年ごろには早々に縮小し、露天掘りだけ行われたようである(2001年に閉山)。しかし、オイルショックなどもあって原子力エネルギーへの期待は依然として高く、人形峠には様々なパイロットプラントが建設された。その後、人形峠の事業所は放射性廃棄物処理など、いわゆるバックエンドの技術開発を行い現在に至っている。

日本には資源がない。日本は石油を求めて戦争を始め、石油のために負けた。最後には原子爆弾の惨禍にも遭った。その日本人が敗戦後わずか十年で選択した夢のエネルギーが原子力だった。人形峠にウランが発見されたころの関係者の興奮について元動燃所長の講演記録が詳しい(温泉科学 vol.35 pp.65-76)。反対する人もいただろうが、当時の日本は国中でこの新エネルギーに賭けた。いま我々が豊かな生活を享受できるのは、安定したエネルギー供給があるからだ。国産ウラン計画はとん挫したが、原子力発電は日本を支えた。何ごとにも裏と表がある。原子力の場合、裏の面が強調されることが多い。たまには表の面にも目を向けていいのではないだろうか。